New-HALE

山本 健一 / KENICHI YAMAMOTO(1)山岳スポーツへのきっかけ

超長距離レースを得意とするプロマウンテンランナー。高校時代は山岳競技、大学ではスキーのモーグル競技に取り組み、その後トレイルランの世界へ。2019年に山梨県立北杜高校教員を辞し、現在はフルマークスに所属。2008年「日本山岳耐久レース」優勝、2009年「UTMB」8位、2012年「グラン・レイド・デ・ピレネー」優勝など。

■山岳スポーツに目覚めたきっかけ

山梨県の韮崎で生まれ育った僕は小学校ではサッカー部、中学では陸上部に所属していました。子どもの頃から実家の農業を手伝うことが好きだったので、中学を卒業したら農業高校に進学しようと思っていたんです。そんなとき、高校の体育教師をしていた父から、自分が高校2年のときに山梨でインターハイが開催されることを聞きます。

その話を聞いた途端、自分の中でスイッチが切り替わって、スポーツ選手が目標になりました。「絶対にインターハイに出る。インターハイで優勝したい!」と思ったんです。

インターハイで勝てる競技は何だろうと探してみて、浮かんできたのが、山岳競技、ボート、フェンシングでした。詳しく調べてみたら、フェンシングが強い高校は進学校で入学できそうにない。ボートは河口湖を拠点に活動しなければならないので、物理的に難しい。山岳競技はたまたま地元の韮崎高校が県内でいちばん強いことがわかって、韮崎高校への進学を決めました。

いってみれば、インターハイで優勝するために高校を選んだわけです。これは後でわかったことなんですが、インターハイの山岳競技は開催地がすごく有利なんですね。下見に行けますから。

それで1996年、高校2年のときに念願のインターハイに出場し、山岳競技で優勝を果たしました。

■モーグルひと筋だった20代

高校では夏は山岳部、冬はスキー部でアルペン競技に取り組んでいました。といっても、アルペンを滑るのは合宿に参加するときだけで、それ以外は仲間とモーグルばかり。コブを滑るのがとにかく好きで、週末には八ヶ岳や白馬のスキー場に通っていました。

信州大学に進学したのも、モーグル競技に取り組みたかったからなんです。高校2年のとき、テレビでオリンピックの総集編を見て、「俺、これに出る!」と決めました。山岳競技を選んだときと同じですね(笑)。

モーグル競技に取り組むための環境を探すなかで、信州大学のことを知ります。信州大は学部によって校舎が点在していて、長野市内だと長野駅の南側に工学部、北側に教育学部がありました。長野オリンピックのモーグル会場が駅の北側にあって、モーグル部はそこで活動していると聞き、それなら教育学部に進むしかないと入学しました。

高校でも大学でも、本当に自分がやりたいことだけを選んできたんです。でも結果的に、それでよかったと思っています。教育学部に進学したことで、教員の道も開けたわけですから。

肝心のモーグルは、20歳のときに膝の靱帯部分断裂と半月板損傷を経験し、思ったように成績は伸びませんでした。それでも滑ることが好きだったので、28歳までSAJの公認大会に出場しました。

モーグル競技を辞めたのは、膝がスキーに耐えられなくなったから。モーグルの滑走速度はトレイルランより速く、その分、重力加速度も大きいので、膝に大きな負担がかかっていました。

続く

関連記事一覧

最新記事

おすすめ記事

  • 登録されている記事はございません。